2014年7月26日土曜日

「子供がまだ食ってる途中でしょうが!」

子供がまだ小さいため、夫婦だけで食事に行くという機会がめったにない。

それでも、何かの拍子に奇跡的にそんな機会が訪れると(さすがに、ランチだが)、テンションが上がってしまい、前日から「明日は何を食べに行こう?」と、2人でいろいろ相談をするコトになる。

しかし、散々迷った挙げ句、結局、いつもラーメンになるのだ。

で、今度は、せっかく行くのだからどこのお店にしようかと、自分の数少ない脳内ラーメンDBの中から、「あそこはウマいが、カウンタしかない」とか、「あそこはサイドメニュが豊富なのが魅力だ」等と、いろいろ候補を上げるのだが、こちらも、ヨメの答えは、いつも決まっている。

「どこでもいい。だって、どこもおいしいから」

そうなのだ。

食通ラヲタと言われるヒト達にとっては違うのだろうが、我々にとっては、本当に、どこのお店も、充分においしい。
そもそも、京都(市)には、実に多くのラーメン屋さんがあるので、その中で生き抜いているコトを思えば、それも当然なのかもしれない。

しかし、である。

その中でも、やはり、普通においしいかったなぁで終わるお店と、それにとどまらず、そのおいしさに、思わず「感動」してしまうお店があるように思う。
その違いは、どこにあるのだろうか?

ラーメン屋さんといえば、自分が小さい頃は、なんというのか、渦巻きみたいなマークか、龍の絵のついたウツワで中国を彷彿とさせつつ、スープは透明な醤油味で、具はシナチクナルトが乗って、なぜか、必ずテーブルに置いてあるS&Bのコショウをしこたまかけてから食べる……というイメージがあったのだが、いつの間にか、そんな古式ゆかしいラーメン屋さんはすっかり少数派になり、現在は、全体的に中国から"和"への転換が図られている。

ウツワはゴツっとした厚手のモノになり、スープはこれまでなかった魚介系等も出てきつつ、ナルトはすっかり姿を消し、店員さんは、おそろいの黒Tシャツ(背中にはみつを的な何か)にアタマタオルという出で立ち。

そして、最も大きな違いが、ラーメン道というか、とにかく、「求道」という雰囲気が全面に出てきているコトである。

ただ、同じく求道のニオイがするソバの世界とは、根本的に何かが違う。

椎名誠さん『殺したい蕎麦屋』という、いささか物騒なタイトルのエッセイ集があるのだが、その中に、椎名さんが信州で、あるおソバ屋さんに入った際、ソバつゆの代わりに水が出され、

「当店のソバは、味に自信があるので、渓流の水で食べて下さい」

と言われ、お金だけ払って食べずに出てきたというエピソードが載っていた。

真偽のほどは分からないが、それでも、いかにもありそうと思ってしまうように、ソバの場合は、なんか、"仙人"とか"霞"といったコトバが浮かぶような求道という感じがする。

一方、ラーメンは、同じ求道でも、もう少し世俗的というかお坊さん的というか(失礼)、求道のはずなのに、どことなく、「マスコミ対応」とか、「フランチャイズ」とかいったコトバが想起されるたたずまいがある。

さて、そんな現代のラーメン屋さん。

これだけ多くのラーメン屋さんが乱立しているので特に思うのだが、それぞれのラーメン屋さんのご主人というのは、みなさん、やはり、自分のお店のラーメンが、どこよりも一番おいしいと思っているのだろうか?

例えば、自分の店はトンコツだが、他のお店はニボシだったりトリガラだったり、明らかに違いがあるので、お客さんの好みによっては、他の店の方が好きだというヒトがいるのは仕方がない。
しかし、自分が食べてみると、やっぱり、自分の店が一番ウマいなぁ〜という感覚。

逆にいうと、ホントは自分の店より、ぶっちゃけ、あっちの店の方がウマいんだけどな〜と思いながらやっているお店はあるのだろうか?

他の店に負けていたら悔しいとか、一番おいしいラーメンを自分の店のお客さんに提供したいという強い願望……
おそらく、自分が食べにいったラーメン屋さんには、ぜひ、そういった気概でやってもらいたいと誰しもが思うだろう。
そして、そういった思いが、時として、おいしさを越えた「感動」を生むのではなないだろうか。

一方、それを言う以上、こちらもそれなりの心意気でのぞまなくてはならない。

冒頭のセリフは、ご存知、「北の国から」の、夜のラーメン屋さんでの有名なシーンにおける五郎の発言。

お店側にいろいろ要求するのならば、こちらも、もし、目の前のラーメンを取り上げられそうになったら、店員さんに食って掛かるくらいの真剣さでラーメン一本勝負に取り組まなければならないだろう。

……この場合は、完全に逆ギレだけど。

2014年7月25日金曜日

「『ありのままの自分』って、何なんですかね?」

テレビを全く見ないため、相変わらず、世の中で流行っているモノがさっぱり分からないのだが、それでも、アナと雪の女王というアニメ映画(?)が空前の大ヒットをしているというくらいは、エラいモノで、そんな自分の耳にも入ってくる。

そして、これまたどうやら話題らしい主題歌に関しては、自分以外の家族が毎日歌っているので(しかも、超成り切り型熱唱系)、原曲を一度も聞いたコトがないのに、いつの間にか、あらかた、歌詞も覚えてしまった。

曰く、
ありのままの姿見せるのよ ありのままの自分になるの
何も恐くない 風よ吹け 少しも寒くないわ

(中略)

これでいいの 自分を好きになって これでいいの 自分を信じて
光浴びながら歩き出そう 少しも寒くないわ
非常にメッセージ性の強い(というか、モロにそのまま)歌詞だが、ここに盛られている思想、つまり、「ありのままでいい」「自分を受け入れよう・自分を愛そう」「今のままであなたは完璧な存在だ」というのは、なにも、この歌に限ったハナシではなく、スピリチュアル系及び自己啓発系の分野では、非常にメジャーなフレーズだ。

で、改めて思うのだが、この「ありのままでいい」「ありのままの自分を出そう」というのは、本当に正しいのだろうか?

もちろん、自分も本来そうであるべきだと思うし、ホントにそうできれば、どんなにステキだろうとは思う。
しかし、大多数のヒトが、多かれ少なかれ本当の自分をガマンして出さないようにしているのは、もし、みんなが、ありのままの自分を素のままで出したら、今以上に世の中が混乱するからだと思うのだが、そうではないのだろうか?

少なくとも、自分を振り返れば、必死にありのままの自分を隠そう、直そうとしている現時点ですら、それでも漏れて出てしまう部分だけで、周りにいる家族や職場の人達は、充分、辟易していると思うのだ。

それが、このメッセージを真に受けて、そのプロテクトをはずし、本当にレアな自分を素材のまま全開で出したら、今以上に気が短くて怒りっぽく、自分のコトを最優先し、器が小さく、ヒトを見下した人間が現れるのだが、本当に、それでいいのでしょうか?(誰に聞いてる?)

もしかしたら、大前提として、「他人に迷惑をかけない範囲で」という注意書きがあるのだろうか?
それとも、ありのままの自分を出して離れて行くようなヒトは、元々、本当の友人等ではないというコトなのだろうか?

そう言えば、そんなコトをツユも考えもせず、毎日、ありのまま全開で自分をまき散らしていた中学や高校時代の友人は、今でも(細々とではあるが)付き合いが続いているし、そんな自分を受け入れてくれたコトを、今でもとても感謝している。

そういうコトなのだろうか?

冒頭の発言は、(おそらく)この歌を受けた、タモリさんのひとこと(くわしくは、タモリ、ラジオで「腹が立つ言葉」を明かす「『ありのままの自分』って、何なんですかね?」「『タモリさんらしさ』なんて言う制作サイドは信用しない」 - ライブドアニュースタモリ、「自分らしさ」という言葉が嫌いな理由「自分らしさは、自分では分からない」 | 世界は数字で出来ている)。

う〜む。
もしかしたら、ありのままの自分というのは、今、認識している、この内面的な感情や考えとも、また、違うのだろうか。

肝心の映画を見ていないので(おいおい)、もしかしたら、その中に答えはあるのかもしれない。
しかし、そんな"外部"にではなく、「全ての答えは、自分の中にある」というのも、これまた、それ系の分野の定番のフレーズなんだけど。

2014年7月23日水曜日

「なぜW杯敗退の検証を行う前に次期監督が決まるのか?」

もう、みなさん、既にザックの就任時のコトなんて忘れているかもしれないが(というか、ザック自体が怪しい?)、当時は日本代表の監督決定が遅れに遅れ、ついに、最初の強化試合の2試合は、原博実技術委員長が指揮を執るという異常事態になった。

その際、世界中の有力な候補にあちこち断られまくり、代表監督の選定が難航したコトで、原委員長及び日本サッカー協会は、その対応の遅れを、散々、各方面から批判された訳である。

で、その教訓を生かし、今回はW杯中から次期の監督選定を始めると、今度は今度で、冒頭の発言のようなコトを、やはり、散々、言われる訳である。

あえて言おう。
どっちやねん!と。

香川がいるので、日本でも自然と報道の多いマンUだが、W杯前に来期の監督がファンハールと発表された。
それを聞いた時、最近、サッカーの情報を全くフォローできていなかったので、なんの疑いもなく、

「へぇ〜、あんな有力な監督が、今まで何もせずにあいてたのか」

と思っていたら、何のコトはない、大会が始まって見ていると、ファンハールは、しっかり、オランダの監督をしているではないか(というか、2年前から)。
つまり、W杯が終わる前、いや、始まる前から、既に、次の就職先が決まっている訳である。

サッカー界全体がそんなスケジュールで動いているのに、W杯が終わってから、さぁて、今回悪かったトコロはどこかなぁ〜と悠長に構え、じゃぁ、その点を直してくれるのは、こんな監督だといいんだけどなぁ〜なんてやってたら、そりゃ、有力なヒトは、もう、みんな新しい就職先で活動を始めている頃だろう。
それが、まさに前回、難航した最大の原因だったと思うので、個人的には、ちゃんと反省を活かしてるじゃん、と思っていたのだが……

さて、そんな中、何の根拠か、最有力候補と言われているアギーレ氏。

上記のような人事先行に対する世論の反発もあり、全く本人のせいじゃないのに、なんか、アギーレが悪いみたいになっているが(なってない?)、それはともかく、日本人選手と体型が似ているメキシコを率いて優秀な成績を残したから、多分、日本もどうにかしてくれるんじゃね?という理由で候補に上がってきたのは、容易に想像がつく。

しかし、ホントに似ているだろうか?

中米、そして、南米の選手なんて、確かに、身長こそ小柄なモノの、胸板なんか、もう、いっそ"パイオツ"と言いたくなる程の豊満(?)さである(しかも、選手だけでなく、審判も)。

たとえ、同じくらいの身長だからといって、あんな屈強なカラダと日本人選手は、全く比べモノにならない。
いくら、本田のフィジカルが強いって言ったって、やはり、根本が違うのだ。

中米や南米の選手が頑丈でチカラで押す鉈ならば、日本人選手は、切れ味で勝負する、それこそ、日本刀なのだ。
元々全く違うモノなのだから、他国を模倣し、同じ方向を目指しても、当然、いい結果が出るはずがない。
やはり、オシムの言うとおり、日本代表は、とことん、日本化して欲しい。

そこで、どうするか。
日本独自のサッカー、つまり、"NINJA Football"を目指すのだ!!

例えば、ドリブルして相手に向かって行き、ボールは相手の股の間を通し、自分は側転して相手をかわすとか(ん?どこかで見た?)、もしくは、分身の術で、どんな局面でも、常に数的優位を作るとか。

……まぁ、それは冗談だとしても、とにかく、屈強さで勝負できない分、俊敏とか身の軽さを存分に活かして、相手を翻弄するようなサッカーをしてもらいたいモノである。

なので、もう少し現実的な感じでいうと、対峙した相手に対し、両足でボールを挟んで、"ピョン!"と飛び越えてかわすとか。

……それが、メキシコのブランコなんだけど。

2014年7月21日月曜日

「彼は二代目のペレではない。初代のマラドーナだ」

「戦術は、"メッシ"」と言われていた、今大会のアルゼンチン
アルゼンチンの試合は決勝戦しか見られなかったが、それでも、明らかに多大なる特権がメッシに与えられているのは一目瞭然だった。

普通に考えたら、あまりにもリスキィな"戦術"だが(同じく、"攻撃の戦術は、ネイマール"だったブラジルを参照)、しかし、それでも決勝まで残ってしまうなんて、一体、どんだけの個のチカラやねん!と思ってしまう。

しかし、マラドーナが活躍していた頃も、

「アルゼンチンの監督の仕事は、試合前、メンバ表に"マラドーナ"と書くだけ」

と言われていたらしいし、実は、アルゼンチンのお家芸なのかもしれない。

さて、そんな共通点(?)もあり、なにかと比較されるメッシとマラドーナ。
今大会も、いろんなヒトが「メッシは、まだ、マラドーナを越えてない」とか、「優勝したら、漸く越える」とか、さんざん言っていた。
おそらく、メッシは一度も聞いてないのに。

自分自身は、94年のアメリカ大会で、ギリっギリ、リアルタイムでW杯でのマラドーナを見るコトができた。

その時も、もう、体型的には、すでに現在のマラドーナに近づきつつあったが(それでも、まだ、あそこまでののびしろがあるとは思っていなかった)、明らかに彼がいるかいないかで、全く別のチームになるのが素人目にもハッキリ分かった(まぁ、その直後にあんなコトになってしまったが)。

しかし、メッシが生まれたのは、1987年。
アルゼンチンが優勝し、「マラドーナのための大会」と言われた1986年大会の翌年なので、もちろん、その時の様子は知らないし、90年の準優勝時で3歳だと、これも正直、物心がついているかどうか、微妙なトコロだ。
そして、94年大会時こそ7歳だが、マラドーナは、すでにあんなんだったし……

そんな、自分の実感としてはよく分からないおっちゃんといつまでも比べられ、さんざん越えただの越えてないだのと言われるのって、一体、どんな気持ちなのだろう。

マラドーナも、ことあるごとにメッシについて言及しているが、そもそも、当のマラドーナ自身、若手の頃はペレと比べられ、タイトルに上げた言葉のように言われていたそうだ。
メッシだって、「オレは初代のメッシ!」だと思っているコトだろう。

さて、後継者と言えば、今大会の目玉とも言えたコロンビアロドリゲス
同じく94年のアメリカ大会で鮮烈なイメージを残した、同国の英雄、バルデラマが、やはり、彼のコトを「自分の後継者」と言っていたらしい。

バルデラマといえば、その風貌はもちろん、インサイドキックしか使わない(使えない?)ゲームメーカというのが、なぜか、実にカッコよかった。
あの時のコロンビアには、アスプリージャもいたが、やはり、バルデラマの方が、断然、キャラが立っていた(サッカー選手に、キャラ立ちが必要かどうかは別にして)。

しかし、そんな、バルさまも、ここのトコロ、とんとお名前をお聞きしないなぁと思っていたら、今大会の直前に、「選手はワールドカップ期間中にセックスをしろ」と熱弁をふるい、突然のブレイク。
久しぶりに出てきたと思ったら、こんな発言で注目されるおじさんの後継者と言われるのって、一体……

まぁ、しかし、これ自体は「もぅ、バルちゃんたら」で済むハナシだが、実は、以前から、ぶっちゃけ、そこの部分てどうなのだろう?と、個人的には非常に強い関心を抱いていた。

W杯に出場する選手達って、大会前の合宿から考えたら、基本的には(彼女を含む)家族とは接触できない状態で、1ヶ月以上を過ごす訳である。
以前に比べれば、個室になったらしいので、少しは改善されたのかもしれないが(何が?)、スポーツ選手なんて、おそらく、一般のヒト以上だろうし(何が?)、ホント、どうなのだろう?

……と、思っていると、立て続けに、「 サッカーW杯ブラジル大会で、セックスを禁止した全ての代表チームが、ベスト16までで敗退した」「ついにベスト8が出揃ったブラジル・ワールドカップ、SEX禁止のチームは全滅?」という記事が出て、いみじくも、バルさまの正しさが証明された訳である(そうか?)。

さて、それはともかく、この後継者問題。
日本に置き換えたらどうなのかと考えた。

日本で「二代目〇〇」「〇〇の正当な後継者!」といった場合、「〇〇」には、一体、誰が入るのだろう?

世界的にも名が知れていて、いろんな意味で伝説っぽくて、圧倒的な存在感がある人物……

なんか、カズではないし(そもそも、まだ、現役だ)、中田もちょっと早い気がする。
もちろん(?)、ラモスでもないだろうし、実績で言えば、奥寺さん……

……釜本?

そう考えると、確かに上記の条件にあてはまるし、もっと言われてもよさそうなモノだが、少なくとも、Jリーグが始まってからのにわかファンである自分は、そういった選手を聞いた記憶がない。

ご本人に癖があるのは確かだが、それはマラドーナやバルデラマだってそうだろう。
一体、何が違うのだろう?

……人間力?

2014年7月15日火曜日

「普通に歌って欲しい」

「本当に歌が上手いランキング」で断トツ1位に輝いた歌手は? - ライブドアニュース

普段、全くと言っていい程テレビは見ないのだが、珍しくテレビをつけると、たまたまこの番組をやっていた。

で、自分が見始めた時点が8位の井上陽水さんだったのだが、その直後に、宇多田ヒカルさん(6位)と吉田美和さん(5位)が続き、

「おいっ、じゃあ、1位は、一体誰だよ!」

と、ひとりで憤っていた(世代的な関係で、歌がウマいと言えば、無条件にこの2人と思ってる)。

で、その後、さらにランクが上がり、正直、よく知らないヒトがいつつも、2位に久保田利伸さんがランキングされ、まぁ、そりゃそうかなぁと思っているトコロでコマーシャルになったので、その間に、1位をいろいろ考えてみた。

演歌のヒトが全く出てないが、まさか、アッコだろうか(演歌じゃない?)。
そういえば、個人的には、稲葉さんは非常にウマいと思うのだが、ちょっと、分野が違うのだろうか?
あと、一般的に歌がウマいと言われているのは、平井賢さん……?

……等と思いつつ結果を見ていると、一位は、なんと(← 失礼)、玉置浩二さん

しかも、アムロ(安室ではない)的に言うと、

「圧倒的じゃないか……」

な結果。

そりゃ、確かに上手だとは思っていたが、まさか、専門家が聞くと、これ程までに違うとは。

まぁ、専門家は、我々一般の音楽好きとは全く別の視点で、全く別の場所を見ているだろう。
そして、なにより、たとえどんなにウマくても、それは、あくまでも手段でしかない訳である。

生業として歌を歌っているヒトは、歌が上手というよりは、もっと、聞き手に対して、心地いいとか、好き!とか思ってもらわなければならない訳である。
個人的には、決してウマい = 好かれる、ではないように思う(この問題を考える時、なぜか、いつもローリングストーンズを想起してしまう)。

さて、冒頭のひと言は、このコーナの最後で、玉置浩二さんの「フェイク」(元歌をアレンジして歌う歌唱法)がスバラしいという専門家のインタビュー映像を受け、司会の浜ちゃんが、ポロっと(YOUに対して)言っていたモノ。
この問題(?)は、自分も以前から強く思っていたので、やはり、自分だけじゃないんだと、胸を撫で下ろした次第である。

この件で、最もよく見受けられるのが、正しい(というか、本来の)譜割に対して、(なぜか)スゴく遅れて歌う「遅延型」

番組内では、徳永英明さん「壊れかけのレディオ」が指摘されていたが、自分は、このランキングにも入っている布施明さんが、出場辞退宣言(苦笑)前の紅白で、「シクラメンのかほり」を歌っていた際、あまりに譜割に対して歌い出しが遅すぎるため、

「あ、歌詞、忘れてはる!(しかも、ワンフレーズずつ!)」

と思ったモノである。

また、これの対として、「倍速型」もある。

番組内で松ちゃんが指摘していたのが、欧陽菲菲さん「ラヴ・イズ・オーヴァー」
うん、確かに、聞いたコトがある。

あと、もうひとつあるのが、「過剰型」

例えば、松山千春さん「長い夜」は、 テレビ等でこの曲を聞くたびに、サビの「なが~いよるを~」の「なが~い」の「〜」の部分が、文字どおり、どんどん長くなっている。

そもそも、これらの現象(フェイク)が現れるのは、番組内で浜ちゃんも言っていたが、やはり、本当に同じ曲を何回も何回も歌っていると、そりゃ、正直、飽きてくるのだろう。

確かに、それには同情するが、それでも、"職業"として歌を歌っている以上、顧客のコトを考えれるならば、やはり、常に”普通”に歌ってもらいたい。
それが、たとえば、その歌手の完全なファンしかいない「リサイタル」の場ならともかく(とはいえ、会場の様子等を映した映像で、一緒に歌っている熱狂的なファン達ですら、フェイクの罠にはまっている場面をよく見るが)、たまにしか聞かないヒトが圧倒的な場(たとえば、紅白)では、なおさらだ。

もちろん、玉置さんのスゴさのエピソードとして出たくらい、フェイクが、歌のウマさひとつの指標なのは分かる。しかし、本当に自分は歌が上手だと思っているならば、別に、ことさらそれを誇示する必要はないではないか。

中にはフェイクが過ぎ、いつのまにか、元々原曲になかったセリフを勝手に歌の前につけちゃって、作詞家先生に激ギレされ、その歌を歌えなくなっちゃったりする訳である。

ちょっと違うか。

2014年7月14日月曜日

「彼は木星から来ている」

プロのサッカー選手になれるなんて、少し考えただけでも、とんでもなく狭い門をくぐり抜けてきたヒト達だというコトが分かる。

そんな選ばれし者達の中から、さらに、1国の代表チームに呼ばれ、最終的に23人の枠に入るなんて、一体、どんなヒト達なのか、全く想像すらできない。

そして、そんな本当に奇跡のような条件をクリアしたヒト達が32カ国分だけ、つまり、世界中から736人しか出場する権利を与えられない大会がW杯である。
しかし、そんなこの惑星を代表するサッカー野郎ばかりが集まった中にあって、さらに、全く別次元のプレーをする選手達がいる。

ネイマールしかり、ロッベンファンペルシしかり、コロンビアのロドリゲスしかり、そして、メッシしかり……

冒頭の発言は、今大会でアルゼンチンと対戦したナイジェリアケシ監督が、メッシを評して言ったコトバ。
実際には、木星という例えが適切なのかどうか、もうひとつよく分からないが、とにかく、他の選手達とは明らかにプレーのレベルが違うというコトだろう。

それにしても、W杯で試合に出ている選手達なんて、1日中年中無休でサッカーのコトばかり考え、我々には想像もできないような努力をし、これ以上ないほど自分を高めているヒト達ばかりのはずである。

それなのに、あぁ、それなのに、そんな自分達ですら、絶対にできないような、さらに上のプレーを目の前で見せられるなんて、一体、どんな気持ちなんだろう。

おそらく、悔しくて悔しくて、しょうがないだろう。
もしくは、自分が情けなくなるかもしれないし、何かを恨みたくなるのかもしれない。

もちろん、理論的には、

「そういう君には、メッシにはない別の能力がある。君は、そこを伸ばせばいいんだ」

というハナシなのだとは思う。

しかし、欲しいのは、そんな教科書的な慰めではない。
自分が欲しいのは、あの、メッシのプレーなのだ。

そして、実際には、そんなスター選手になればなるほど、CMで、ヒゲを剃りながらレベルの低いダジャレを言わされたり、はたまた、自分の彼女と一緒に全裸(ムスメ的表現では、"はだかんぼ")でファッション雑誌の表紙を飾ったりしないといけないので、サッカー以外のコトでも多忙になるだろうし、自ずと、練習時間も限られるだろう。

それなのに……である。

才能、と言ってしまえばそれまでだが、他の普通の(?)選手達からすれば、どうにも遣り切れないのではないだろうか。

まぁ、それでもまだ、スポーツなら、それまでにも十分に努力していても、さらに、(効果があるかは別にして)トレーニングの量を増やすコトは可能だと思う。
もっとシュート練習を増やそうとか、これまで以上に走り込もうとか、なにかしら、具体的なトレーニング方法が見つかるような気がする。

しかし、たとえば、現在、明らかに乱立気味のお笑い芸人等の場合は、どうなのだろう?

おそらく、お笑いの世界でも、悔しいけど自分よりおもろいと認めるヤツがいて、そいつよりおもろくなりたい(端的に言うと、「売れたい」)という気持ちが、誰しも強くあるはずである。

そのためには、もちろん、みんな努力を惜しまないだろうが、こういった分野の場合、スポーツ等と違って、素人でも想像できそうなベタな"努力"が分からない。

おそらく、「ネタを考える」というのがそうなのだろうが、なんとなく、お笑いの場合、そうやって、考えて考えてよいモノができるというよりは、もっと瞬間に浮かんでくるひらめきやアイディアのような気がする。

そういった、ある意味、不安定であやふやな世界の場合、どうやって目標を決めて、努力をしていくのだろう?

まぁ、ともかく、今回もW杯が終了した。

いつもの理由で、残念ながら、ほとんどの試合を見るコトができず、決勝で、今大会で初めてメッシを見たのだが、やはり、メディアを通じて聞いていたとおり、全く別次元のプレーをしていた。

現代サッカーにおいて、思わず、往年のラモスですらもうちょっと動いたぞと思う程の動かなさ。

試合も、結局、いつもの理由で、唯一点の入った延長後半だけ見られなかったのだが、終わって確認すると、そんなメッシが大会MVP

う〜む……
木星仕様。

2014年7月13日日曜日

「両チームともにPK戦狙いならば、最初からPK戦にすればよかった」

「芸能界のご意見番」ならぬ、「サッカー界のご意見番」(日本限定?)であるオシムの、アルゼンチンVSオランダの準決勝を評したひと言

「さすがにオシム。おもしろいコトを言うなぁ」

と思う反面、もし、そんなコトを言うなら、W杯自体、毎回、2年も3年もかけて予選なんかしなくても、最初からブラジルアルゼンチンウルグアイドイツイタリアフランスオランダ「神7」だけでやったらええやん、というハナシになってしまう(まぁ、少なくとも、他の多くの国からしたら、4カ国も出場して一勝もできない地域は、ホントにいらないだろうが)。

それにしても、サッカーのように、偶然審判のサジ加減ひとつで大きく勝敗が変わる競技において、結局、毎回、「ユージュアル・サスペクツ」(いつものヤツら)が残るというのには、やはり、それなりの理由があるのだろう。

多分、彼らは、「自分にはできる」と思っているのだ。

以前、オリンピック金メダルをとる選手というのは、他の選手と違って、自分が金メダルを取るコトを、全くこれっぽっちも疑っていないというハナシを聞いたコトがある。

「金メダルがとりたい」とか、「金メダルがとれなかったら、どうしよう……」とかいう発想はハナからなく、競技が始まる前から、

「えっと、自分は金メダルをとるんやけど、なにか?」

という感じらしい(しかも、マジ)。

そうやって聞くと、ちょっと痛い感じにも聞こえるが、しかし、結局は、そういうコトなのだと思う。

まだ、若干、実績が少ないため、上記の「神7」には含めなかったが、スペインなんか、前回大会までは、本当に毎回毎回……優勝候補に上げられながら、それこそ毎回毎回……「無敵艦隊、沈没」と書かれていた(どうも、その頃のスペインのイメージは、ラウールと重なってしまう)。

それほどのポテンシャルがありながら、どうしても上にいけなかったスペインだが、2008年のユーロで優勝したコトで、

「あぁ、オレ達も勝ってもいいんや」

と心から思えたことが、前回大会の優勝につながったのだと思う。

ことあるごとに「なるほどなぁ」と思うフレーズがある。

それは、

「あなた以外に、あなたにそれができないと言ったヒトはいない」

というモノ。

そうなのだ。
自分に”許可”を出していないのは、結局、自分だけなのだ。

2002年と前回大会でベスト16に残った日本だが、2回とも、見事に同じトコロで敗退してしまった。

よく、「そこで満足してしまった」という言われ方をしたが、多分、満足したというよりは、心のどこかで、

「オレみたいなモンが、ベスト8なんておこがましい」

と思っていたのではないだろうか(サポータも含めて)。

人間は、何らかの行動を起こすコトによって、今よりよい環境になるかもしれないコトが分かっていても、それでも、今より悪くなるかもしれないリスクを負うくらいなら、少なくとも、現状維持をしようとするらしい(ホメオスタシス(恒常性)とか言ったりする)。

ホメオスタシスは、もしかしたら、本能よりも奥深い生命維持の基本であるため、なかなか意識していてもそれを覆すコトは難しい。しかし、なんらかの理由で、それを破らない限り、新しい環境や次の段階には行けない。

そんな慣性、いや、惰性を、選手だけでなく、日本のサポータ全員が打ち破った時が、本当に日本代表が躍進する時なのだろう。

2014年7月8日火曜日

「人生は、絵と似ています」

写真

「自分の人生を
 一歩離れて見つめましょう。
 人生は、絵と似ています。
 -密着して一部を見ると
 雑然としていても、
 離れて全体を見れば
 うまく調和しているのです。」

恒例の、我が家がお世話になっている保育所にて。

先日、職場の休憩時間に、ほんの少しだけ上村松篁展を見てきました。

近くで見ると、本当に、単なる筆のあとなのですが、それが、たった数歩後ろに下がるだけで、信じられないくらい美しく、力強い動物達の一部になります。

毎日、ウマくいかないコト、思いどおりにいかないコトばかりでヘコタレそうになりますが、これも、何かもっと大きなモノの一部なのでしょうか……?

2014年7月6日日曜日

「プレッシャーはある。でも、それが重荷にはなっていない」

劇的な勝利をおさめたり、偉業を成し遂げたアスリートに対するテレビ局のアナウンサ等がするお決まりの質問で、いつも「なんだかなぁ」と思うものが2つある。

それは、

「今の率直な気持ちをお聞かせ下さい」

と、

「プレッシャはありましたか?」

の2つである。

前者は、アナウンサが丸投げで振っておきながら、選手本人が「嬉しいです」という、それ以外ないだろうという至極もっともな答えをしようモノなら、

「チ、なんだよ、もう少し気の効いたコメントしろよ」

という雰囲気がありありだ(偏見?)。

そもそも、相手は、コメンテイタやお笑い芸人ではなく、スポーツ選手なのだ(しかも、たいてい試合直後の疲労と興奮のピーク状態にある)。
そのヒトたちが自ら発せなくても、結果としておもしろい回答にもって行けるようにするのが、インタビューの専門家であるアナウンサ達の仕事だと思うのだが、いかがだろうか(ただ、最近は、当意即妙のおもしろコメントができるアスリートが増えているが)。

一方、後者の質問に関しては、「ありました」という答えが分りきっているのに、それを聞いて、一体、どうしたいのだろう。
そんなにスゴイ人でも、自分達と同じようにプレッシャを感じるただのヒトなんだと確認したいのだろうか?

しかも、それが、たまに、「いえ、全くなかったです」みたいな答えが返ってくると、今度は、突然、

「おいっ、空気読めよ!」

という雰囲気がありありなのだ(偏見??)。

まぁ、そんな「プレッシャ」である。

プレッシャというと、なんとなく、それこそ文字どおりに、周囲の人間から精神に与えられる強いチカラのような気がする。
しかし、誰1人として、他人の心の中に入って、物理的な圧力をかけるコトはできないはずである。

つまり、プレッシャというのは、自分が"勝手に"感じているコトなのだ。

そして、その中身は、「失敗したらどうしよう」という不安や焦り、または、「周りのヒトを失望させたくない」という強い義務感だろう。

もし、ここで失敗したら、どんなコトを言われるだろう、そして、何を失うだろう……という恐怖。
結果や行動に先立つその手の極度の心配が、結局、プレッシャの正体ではないだろうか。

しかし、ここで耳寄りな情報がある。
人間は、一度にひとつのコトしか考えられないらしい(苫米地さんは、一度に10冊の本を読むらしいが)。

もし、そうであるならば、「失敗したらどうしよう?」の代わりに、「成功したらどうしよう!」と考えるコトができれば、プレッシャを感じるコトはなくなるはずである。

「成功したら、どんなポーズを決めよう」「成功したら、どんなコメントをしよう」……(なんとなく、長嶋さんをイメージしてしまうが)

もちろん、それが簡単にできれば苦労しない訳で、人間も動物である以上、生存の危機にいたる方、つまり、失敗への対応によりリソースを割こうとするのは、必然であり、本能であるはずだ。

にもかかわらず、ピンチの場面で「成功したら、どうしよう!」と考えられるのは、やはり、特別なヒトに与えられた、特別な能力なのだろうか(単に、能天気なだけかもしれないが)。

冒頭の言葉は、ブラジル代表のエース、ネイマールの発言。

サッカー王国と言われる国で64年ぶりに自国開催され、優勝以外許されないW杯において、エースナンバをつける22歳。

それだけでも普通に考えれば、プレッシャでガチガチになりそうなものだが、初戦からキッチリ結果を出し、さらに、8強への勝敗を決定するPKの5人目のキッカとして登場し、なにごともなく決めてしまう……

そのあたりのコトは、こちらの記事にも詳しいが、やはり、なぜ、そんなにプレッシャに強いのだろうと思わずにはいられない。

おそらく、彼も、「成功したらどうしよう?」と考えられるタイプなのだろう。
そういえば、心なしか、いつも笑っている印象がある。

ただ、そんな彼でも、国歌斉唱時や、勝った試合の後で号泣するトコロを見ると、内面では非常に強いプレッシャとストレスを感じているのだろう。

そんな精神的なチカラの重圧を跳ね返しながら、楽しそうにがんばっている姿にとても感銘を受けていたのだが、暴力という物理的なチカラでその道を閉ざされてしまったのは、本当に残念で仕方がない。

バレージ岬くんバリに、決勝で劇的な復活を遂げてくれないだろうか……

2014年7月3日木曜日

「どこをピークにするかポイントなんですけど、まだ自分の中で答えは出せずにいます」

『メッシと滅私』(吉崎エイジーニョ/集英社新書/2014)という、ウマいんだかウマくないんだかもうひとつよく分からないタイトルの本を読んでいると(しかも、メッシについては、ほとんど書かれていない)、「過去の(W杯)優勝国は、すべてキリスト教文化圏の国」だというハナシが載っていた。

しかも、男子だけでなく、女子も含めて。

しかし、その中で、唯一の例外がある。
それが、2011年のなでしこだ。

日本のブラジルW杯が、あまりにもあっけなく終わった。

予選リーグの中盤くらいから、さかんに2006年との類似点が言われていたが、いくらなんでも、最終戦の対南米チームに対する大敗はないだろうと思っていたら、なんのコトはない、モノの見事にそこまで同じ結果になった(しかも、スコアまで一緒)。

今回の惨敗の原因は、一体、何なのだろう?

同じく一次リーグの惨敗後、「フィジカルが弱い」と、日本代表の弱点を分析し、いろんな意味で日本中をアっと言わせたジーコ元監督の意見はともかく、今回、長谷部は、列強との「サッカー文化の違い」のようなコトを言っていた。

確かに、それはあるかもしれない。
ただ、フィジカルにせよ文化にせよ、同じ日本なのだから、男子と女子でそこまで世界に対して違いがあるとは思えない。
なのに、なぜ、こうも結果が違うのだろう。

ところで、初戦のコートジボアール戦で「?」と思い、次のギリシャ戦で確信したのだが、今回の日本は、選手達の動きが重そうに見えて仕方なかった。

しかも、期待値が高いからか、本田長友香川あたりが特にヒドいように思えた。

ただ、コンディションに関しては、間違いなく最高の準備をしているはずなので、なおさら不思議だったのだが、ある時、ハタとその理由に気がついた。

その3人に共通するコト。
それは、常に、W杯での優勝を公言していたというコトである。

つまり、彼らはコンディションのピークを、初戦ではなく、7月14日決勝戦に合わせていたのだ!!

……と、やり場のない脱力感を、自嘲気味の冗談で紛らわしていたのだが、どうやら、あながち、冗談でもないらしい。

冒頭の発言は、W杯前のアメリカ合宿で「決勝まで7試合あるが、いつ、ピークをもってくるか」という記者の質問への本田の答えなのだが……

……今でしょっ!

まぁ、結果が出てから見れば、聞く方も聞く方だと思うが、それはともかく、ビックマウスと言われ、周囲に叩かれるコトを覚悟で大きな目標を掲げ、周りを巻き込んで自分を成長させていこうとする本田の姿勢は、以前からとても感銘を受けていたし、リスペクトもしていた。

しかし、それがいつの間にか、自分が自分のコトバに感化されてしまい、まだ、何もしていないウチから、すでに達成されたかのような錯覚を起こしていたのではないだろうか。

今回、日本代表の試合を見ていて、もう一つスッキリしないのは、おそらく、試合に負けたり、これまでのサッカーが見られなかったコトではないと思う。
それは、選手達の姿から必死さが伝わってこなかったからではないだろうか。

もちろん、それはこちらのとらえた方だし、選手達は、必死にやっていたと言うだろう。
しかし、同じく惨敗だった2006年の第3戦の中で、ひとり奮闘しているように見える中田の姿には、素直に感動できたモノだ。

一体、日本はいつから勝者になったのだろう。
我々はまだ、完全なチャレンジャーのはずである。

前回の南アフリカでは、大会前のテストマッチでの散々な結果を受け、直前の選手達のミーティングで、「俺達は弱いんだ!」という闘莉王の発言から浮上のきっかけを得たと言われている。

日本人の精神の特徴として、既に書いた「正々堂々」と並んで、もうひとつ、「謙虚」があると思う。

それが行き過ぎて自信をなくしたり、変に自己卑下をしてはいけないが、日本では、どんなに成長しても、いや、スゴいヒトになればなる程、「いえ、自分なんかまだまだっス。日々、これ精進っス」といった感じなのが、模範とされる姿だったはずである。

世界から賞賛された、試合後のゴミ拾いに見る公共性や献身性に加え、常に謙虚な姿勢で、正々堂々と戦う。

そんな日本文化の特徴は、決して弱みではなく、キリスト教文化が席巻する世界のサッカー界に対抗できる可能性があるコトは、既に、なでしこが証明しているのだ。

「やさしさは、想像力でひろがる 」

やさしさは、想像力でひろがる (全国キャンペーン)

残念ながらクレジットはされていないのですが、おそらく(というか、間違いなく)、義弟のアニメーション作品(今回、大きく制作手法が変わっていなければ、全て、手書きのはず)。

その作画能力はもちろんスゴいですが、なにより、この作品の流れ自体が、「想像力」のなによりの見本になっているような。

2014年7月2日水曜日

「日本代表を日本化させる」

今回と同様、W杯で悲惨な結果を招いたジーコ監督のあとを受け、2006年に日本代表の監督になった、イビチャ・オシムの就任会見での有名なひとこと。

まぁ、もし、これを言ったのがオシムでなかったら、

「はいはい、おじいちゃん、ごはんはもうちょっと待ってね」

と言われそうなトコロだが、監督が交代するたびに、その監督の得意とするスタイルに大きく変わり、全く継続性や積み上げがない、ブレまくる日本代表を見かねての発言だったのだろう。

バランス度外視で、惜しげもなくスター選手を並べたジーコに対し、就任直後、どちらかというと、それまであまり注目されていなかった選手を多数招集したオシムを見て、「日本化って、地味化なの?」と思ったモノだが、結局その後、オシム流日本化の完成を見るコトなく、道半ばで岡田監督にバトンタッチし、同監督の超現実路線によるW杯16強のあと、ザッケローニ監督が、今度こそ、日本人の特徴を生かしたサッカーを構築するべく、これまでの4年間の指揮をとった訳である。

おそらくそれは、日本人選手の特徴である俊敏な動きと技術、そして、勤勉さを最大限に活かし、パスで相手を翻弄し、スピードで圧倒するようなスタイルだったと思う。

しかし、今回、あのような結果になると、そのスタイルのツメが甘かったのが、そもそも、その方向自体が間違っていたのかが分からなくなってしまった。
選手達も「自分達のサッカーができれば(勝てた)」とくり返すコトも、そのコトに一層拍車をかけているだろう。

ところで、そもそも、その国のスタイルとか自分達のサッカーとは、ヒトに(しかも、外国人の監督に)指摘されたり、ましてや、考えた末に模索したり構築したりするモノでははずで、どんなに直そうとしても、隠しきれずに、常に"そこ"に存在しているモノだと思うのだが、いかがだろうか?

そして、それは、俊敏性とか器用さとかいった身体的な特徴はもちろんだが、それ以前に、もっと、その国の国民性とか文化とか、そういった精神的な部分の方がよっぽど大きく関与すると思うのだ。

Jリーグが始まった頃、主に南米からきた選手達を中心に、「日本人にはマリーシアが足りない」というコトが盛んに言われた。

マリーシアとは、「ずる賢さ」と訳されたりするが、例えば、大げさに痛がって時間稼ぎをしたり、審判の目を欺いて、ファウルをもらおうといったような行為だろう。

しかし、勝負や試合の場において、そんな文化がない、というか、そもそも、「卑怯」という概念で、そういった行為を最も嫌う日本人にとって、いくらサッカー強国のマネをしても、付け焼き刃感がハンパなく、未だに板についていないコト、この上ないのである。

それでも、さすがにこれはいいんじゃない?と思われる、1点リードで残り時間数分の際の味方同士でのパス交換ですら、どうも腰が据わっていない。

おそらく、ここで露骨な時間稼ぎをするのは、それこそ世界の常識なのだろうが、なんとなく、そんなセコい時間稼ぎをするくらいなら、最後まで精一杯攻めて、それでボールをとられてカウンタを受けたのなら、それはそれでしょうがないというのが、大半の日本人のメンタリティのような気がする。

そう、日本人の根幹は、「正々堂々・真っ向勝負」なのだ。

そして、もし、本当にそうであるならば、どんなにサッカーがウマい他の国の選手にバカにされようと、決して自分達のアイデンティティを恥ずかしがるコトではないはずである。
むしろ、それを躊躇しながら変に他国のマネをしようとするから、サブいコトになるのだ。

また、たとえW杯で惨敗しても、空港で暖かく出迎えるサポータが多いことを見て、もっと選手達を厳しく批判しないと、代表が強くならないと苦々しく言うヒトもいる。

自分自身、ある程度はそうだと思うが、しかし、そもそも、日本人には、どんなにヒドい結果でも、ヒトを足蹴ざまに罵倒したり、生卵トマトを投げつけるような文化はないのだ(某都議の事務所にはあったけど)。

それなら、いっそ、ホントは、こんなコトじゃ強くならないんだけどなぁ……なんて遠慮しながらするのではなく、もっと堂々とすればいいのだ。
(と思っていたら、こんな記事を見て、さすがにこれはちょっとと思ったが)

これらの例は、世界から見ると非常に甘く、つけいる隙だらけに見えるだろう。
また、成績が悪いのに、いつもフェアプレー賞ばかりもらってもしょうがないという意見もあるだろう。

しかし、たとえどんなに青臭くても、遠慮がちに迷いながら他国のマネをするくらいなら、そういった自分自身を受け入れ、それこそ、堂々と自分達のやりたいようにやった方がいい。
そっちの方が、よっぽどストレスも少ないだろうし、本来のチカラが出せるだろう。

という訳で、正々堂々の、なんなら一騎打ちで雌雄を決すべし!という日本人の精神性を最大限に生かし、それを突き詰めたスタイルを構築した場合、果たして、どんなサッカーになるのだろう。

……パワープレイ?

2014年7月1日火曜日

「とぉちゃん、おたんじょうび、おめでとぅ」

今朝、目を覚まして寝室からリビングに降りてみると、壁にこんモノが。

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先月のムスコの誕生日にも見たような気がしますが(笑)、その心遣いとユーモアに、本当に嬉しくなりました。

という訳で、今日は誕生日

その後、起きてきた2歳のムスメは、耳元で完璧に「Happy Birthday」を歌ってくれたあと、さらにちっちゃい声で(笑)、冒頭のひとことを言ってくれました。

そして、仕事から帰ってくると、ムスコからのプレゼントが。

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彼曰く、「矢印」「鉄砲」「天の川」とか。
一体、誕生日と、どんな関係が……

その他にも、朝から実家や(本当に)古い友人からもメールをもらい、さらに、職場でも非常に意外な人からお祝いを言ってもらいました。

毎年のコトながら、本当に、ありがたいことです。

ありがとう。

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