2014年7月6日日曜日

「プレッシャーはある。でも、それが重荷にはなっていない」

劇的な勝利をおさめたり、偉業を成し遂げたアスリートに対するテレビ局のアナウンサ等がするお決まりの質問で、いつも「なんだかなぁ」と思うものが2つある。

それは、

「今の率直な気持ちをお聞かせ下さい」

と、

「プレッシャはありましたか?」

の2つである。

前者は、アナウンサが丸投げで振っておきながら、選手本人が「嬉しいです」という、それ以外ないだろうという至極もっともな答えをしようモノなら、

「チ、なんだよ、もう少し気の効いたコメントしろよ」

という雰囲気がありありだ(偏見?)。

そもそも、相手は、コメンテイタやお笑い芸人ではなく、スポーツ選手なのだ(しかも、たいてい試合直後の疲労と興奮のピーク状態にある)。
そのヒトたちが自ら発せなくても、結果としておもしろい回答にもって行けるようにするのが、インタビューの専門家であるアナウンサ達の仕事だと思うのだが、いかがだろうか(ただ、最近は、当意即妙のおもしろコメントができるアスリートが増えているが)。

一方、後者の質問に関しては、「ありました」という答えが分りきっているのに、それを聞いて、一体、どうしたいのだろう。
そんなにスゴイ人でも、自分達と同じようにプレッシャを感じるただのヒトなんだと確認したいのだろうか?

しかも、それが、たまに、「いえ、全くなかったです」みたいな答えが返ってくると、今度は、突然、

「おいっ、空気読めよ!」

という雰囲気がありありなのだ(偏見??)。

まぁ、そんな「プレッシャ」である。

プレッシャというと、なんとなく、それこそ文字どおりに、周囲の人間から精神に与えられる強いチカラのような気がする。
しかし、誰1人として、他人の心の中に入って、物理的な圧力をかけるコトはできないはずである。

つまり、プレッシャというのは、自分が"勝手に"感じているコトなのだ。

そして、その中身は、「失敗したらどうしよう」という不安や焦り、または、「周りのヒトを失望させたくない」という強い義務感だろう。

もし、ここで失敗したら、どんなコトを言われるだろう、そして、何を失うだろう……という恐怖。
結果や行動に先立つその手の極度の心配が、結局、プレッシャの正体ではないだろうか。

しかし、ここで耳寄りな情報がある。
人間は、一度にひとつのコトしか考えられないらしい(苫米地さんは、一度に10冊の本を読むらしいが)。

もし、そうであるならば、「失敗したらどうしよう?」の代わりに、「成功したらどうしよう!」と考えるコトができれば、プレッシャを感じるコトはなくなるはずである。

「成功したら、どんなポーズを決めよう」「成功したら、どんなコメントをしよう」……(なんとなく、長嶋さんをイメージしてしまうが)

もちろん、それが簡単にできれば苦労しない訳で、人間も動物である以上、生存の危機にいたる方、つまり、失敗への対応によりリソースを割こうとするのは、必然であり、本能であるはずだ。

にもかかわらず、ピンチの場面で「成功したら、どうしよう!」と考えられるのは、やはり、特別なヒトに与えられた、特別な能力なのだろうか(単に、能天気なだけかもしれないが)。

冒頭の言葉は、ブラジル代表のエース、ネイマールの発言。

サッカー王国と言われる国で64年ぶりに自国開催され、優勝以外許されないW杯において、エースナンバをつける22歳。

それだけでも普通に考えれば、プレッシャでガチガチになりそうなものだが、初戦からキッチリ結果を出し、さらに、8強への勝敗を決定するPKの5人目のキッカとして登場し、なにごともなく決めてしまう……

そのあたりのコトは、こちらの記事にも詳しいが、やはり、なぜ、そんなにプレッシャに強いのだろうと思わずにはいられない。

おそらく、彼も、「成功したらどうしよう?」と考えられるタイプなのだろう。
そういえば、心なしか、いつも笑っている印象がある。

ただ、そんな彼でも、国歌斉唱時や、勝った試合の後で号泣するトコロを見ると、内面では非常に強いプレッシャとストレスを感じているのだろう。

そんな精神的なチカラの重圧を跳ね返しながら、楽しそうにがんばっている姿にとても感銘を受けていたのだが、暴力という物理的なチカラでその道を閉ざされてしまったのは、本当に残念で仕方がない。

バレージ岬くんバリに、決勝で劇的な復活を遂げてくれないだろうか……

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