2014年7月26日土曜日

「子供がまだ食ってる途中でしょうが!」

子供がまだ小さいため、夫婦だけで食事に行くという機会がめったにない。

それでも、何かの拍子に奇跡的にそんな機会が訪れると(さすがに、ランチだが)、テンションが上がってしまい、前日から「明日は何を食べに行こう?」と、2人でいろいろ相談をするコトになる。

しかし、散々迷った挙げ句、結局、いつもラーメンになるのだ。

で、今度は、せっかく行くのだからどこのお店にしようかと、自分の数少ない脳内ラーメンDBの中から、「あそこはウマいが、カウンタしかない」とか、「あそこはサイドメニュが豊富なのが魅力だ」等と、いろいろ候補を上げるのだが、こちらも、ヨメの答えは、いつも決まっている。

「どこでもいい。だって、どこもおいしいから」

そうなのだ。

食通ラヲタと言われるヒト達にとっては違うのだろうが、我々にとっては、本当に、どこのお店も、充分においしい。
そもそも、京都(市)には、実に多くのラーメン屋さんがあるので、その中で生き抜いているコトを思えば、それも当然なのかもしれない。

しかし、である。

その中でも、やはり、普通においしいかったなぁで終わるお店と、それにとどまらず、そのおいしさに、思わず「感動」してしまうお店があるように思う。
その違いは、どこにあるのだろうか?

ラーメン屋さんといえば、自分が小さい頃は、なんというのか、渦巻きみたいなマークか、龍の絵のついたウツワで中国を彷彿とさせつつ、スープは透明な醤油味で、具はシナチクナルトが乗って、なぜか、必ずテーブルに置いてあるS&Bのコショウをしこたまかけてから食べる……というイメージがあったのだが、いつの間にか、そんな古式ゆかしいラーメン屋さんはすっかり少数派になり、現在は、全体的に中国から"和"への転換が図られている。

ウツワはゴツっとした厚手のモノになり、スープはこれまでなかった魚介系等も出てきつつ、ナルトはすっかり姿を消し、店員さんは、おそろいの黒Tシャツ(背中にはみつを的な何か)にアタマタオルという出で立ち。

そして、最も大きな違いが、ラーメン道というか、とにかく、「求道」という雰囲気が全面に出てきているコトである。

ただ、同じく求道のニオイがするソバの世界とは、根本的に何かが違う。

椎名誠さん『殺したい蕎麦屋』という、いささか物騒なタイトルのエッセイ集があるのだが、その中に、椎名さんが信州で、あるおソバ屋さんに入った際、ソバつゆの代わりに水が出され、

「当店のソバは、味に自信があるので、渓流の水で食べて下さい」

と言われ、お金だけ払って食べずに出てきたというエピソードが載っていた。

真偽のほどは分からないが、それでも、いかにもありそうと思ってしまうように、ソバの場合は、なんか、"仙人"とか"霞"といったコトバが浮かぶような求道という感じがする。

一方、ラーメンは、同じ求道でも、もう少し世俗的というかお坊さん的というか(失礼)、求道のはずなのに、どことなく、「マスコミ対応」とか、「フランチャイズ」とかいったコトバが想起されるたたずまいがある。

さて、そんな現代のラーメン屋さん。

これだけ多くのラーメン屋さんが乱立しているので特に思うのだが、それぞれのラーメン屋さんのご主人というのは、みなさん、やはり、自分のお店のラーメンが、どこよりも一番おいしいと思っているのだろうか?

例えば、自分の店はトンコツだが、他のお店はニボシだったりトリガラだったり、明らかに違いがあるので、お客さんの好みによっては、他の店の方が好きだというヒトがいるのは仕方がない。
しかし、自分が食べてみると、やっぱり、自分の店が一番ウマいなぁ〜という感覚。

逆にいうと、ホントは自分の店より、ぶっちゃけ、あっちの店の方がウマいんだけどな〜と思いながらやっているお店はあるのだろうか?

他の店に負けていたら悔しいとか、一番おいしいラーメンを自分の店のお客さんに提供したいという強い願望……
おそらく、自分が食べにいったラーメン屋さんには、ぜひ、そういった気概でやってもらいたいと誰しもが思うだろう。
そして、そういった思いが、時として、おいしさを越えた「感動」を生むのではなないだろうか。

一方、それを言う以上、こちらもそれなりの心意気でのぞまなくてはならない。

冒頭のセリフは、ご存知、「北の国から」の、夜のラーメン屋さんでの有名なシーンにおける五郎の発言。

お店側にいろいろ要求するのならば、こちらも、もし、目の前のラーメンを取り上げられそうになったら、店員さんに食って掛かるくらいの真剣さでラーメン一本勝負に取り組まなければならないだろう。

……この場合は、完全に逆ギレだけど。

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