そして、これまたどうやら話題らしい主題歌に関しては、自分以外の家族が毎日歌っているので(しかも、超成り切り型熱唱系)、原曲を一度も聞いたコトがないのに、いつの間にか、あらかた、歌詞も覚えてしまった。
曰く、
ありのままの姿見せるのよ ありのままの自分になるの非常にメッセージ性の強い(というか、モロにそのまま)歌詞だが、ここに盛られている思想、つまり、「ありのままでいい」「自分を受け入れよう・自分を愛そう」「今のままであなたは完璧な存在だ」というのは、なにも、この歌に限ったハナシではなく、スピリチュアル系及び自己啓発系の分野では、非常にメジャーなフレーズだ。
何も恐くない 風よ吹け 少しも寒くないわ
(中略)
これでいいの 自分を好きになって これでいいの 自分を信じて
光浴びながら歩き出そう 少しも寒くないわ
で、改めて思うのだが、この「ありのままでいい」「ありのままの自分を出そう」というのは、本当に正しいのだろうか?
もちろん、自分も本来そうであるべきだと思うし、ホントにそうできれば、どんなにステキだろうとは思う。
しかし、大多数のヒトが、多かれ少なかれ本当の自分をガマンして出さないようにしているのは、もし、みんなが、ありのままの自分を素のままで出したら、今以上に世の中が混乱するからだと思うのだが、そうではないのだろうか?
少なくとも、自分を振り返れば、必死にありのままの自分を隠そう、直そうとしている現時点ですら、それでも漏れて出てしまう部分だけで、周りにいる家族や職場の人達は、充分、辟易していると思うのだ。
それが、このメッセージを真に受けて、そのプロテクトをはずし、本当にレアな自分を素材のまま全開で出したら、今以上に気が短くて怒りっぽく、自分のコトを最優先し、器が小さく、ヒトを見下した人間が現れるのだが、本当に、それでいいのでしょうか?(誰に聞いてる?)
もしかしたら、大前提として、「他人に迷惑をかけない範囲で」という注意書きがあるのだろうか?
それとも、ありのままの自分を出して離れて行くようなヒトは、元々、本当の友人等ではないというコトなのだろうか?
そう言えば、そんなコトをツユも考えもせず、毎日、ありのまま全開で自分をまき散らしていた中学や高校時代の友人は、今でも(細々とではあるが)付き合いが続いているし、そんな自分を受け入れてくれたコトを、今でもとても感謝している。
そういうコトなのだろうか?
冒頭の発言は、(おそらく)この歌を受けた、タモリさんのひとこと(くわしくは、「タモリ、ラジオで「腹が立つ言葉」を明かす「『ありのままの自分』って、何なんですかね?」「『タモリさんらしさ』なんて言う制作サイドは信用しない」 - ライブドアニュース」「タモリ、「自分らしさ」という言葉が嫌いな理由「自分らしさは、自分では分からない」 | 世界は数字で出来ている」)。
う〜む。
もしかしたら、ありのままの自分というのは、今、認識している、この内面的な感情や考えとも、また、違うのだろうか。
肝心の映画を見ていないので(おいおい)、もしかしたら、その中に答えはあるのかもしれない。
しかし、そんな"外部"にではなく、「全ての答えは、自分の中にある」というのも、これまた、それ系の分野の定番のフレーズなんだけど。
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