行う必要のな仕事を見つけ、捨てなければならない。ドラッカーは、すべての仕事について、何もしなかったならば何が起こるかを考えればよいという。何も起こらないのならば、その仕事はただちにやめる。昨年、「見直すべき施設」に分類されたコトを受け、2015年6月19日(金)に、「府立図書館サービスの充実に向けた検討会議」が開催されました。
『ドラッカー時代を超える言葉』上田 惇生/著
それと並行して、今後の府立図書館のあり方について、館内でも議論が進んでいるのですが、個人的にも勉強しようと、今更ながら(本当に、今更ですが……)、いわゆる「都道府県立図書館(以下、府県立図書館)論」に関する論文をいくつか読んでいます。
それらは、ごく大雑把にいうと、域内の市町村立図書館等の支援に重きをおく見解(仮に、「間接サービス論」とします)と、それらの図書館では担いきれない、より高度(?)な資料提供をすべきだという見解(仮に、「直接サービス論」とします)の、大きく分けて二つの方向があるように思います。
まだ、市町村立図書館等が少なかった時代は、府県立図書館が域内に自らの分館を適切に配置し、それらを通じて域内全体にくまなく図書館サービスを提供するという、いわば、「間接直接サービス」(?)というハッキリした役割があったと思うのですが、まだまだ完全とは言えないまでも、それなりに市町村立の読書施設が整備されてきた現在、その役目もほぼ終焉を迎えているように思います。
そこで、今後の府県立図書館の役割についての議論になる訳ですが、上記に挙げたような論文は、いずれも、しっかりとしたデータに基づいて、それぞれの根拠が示されているのですが、個人的に思うのは、そもそも、「府県立図書館ありき」で、その役割や今後の方向性を考えていくのは、ちょっと違うんじゃないかなというコトです。
つまり、冒頭の引用にもあるように、もし、今、仮に府県立図書館がなくなったとして、もう一度、みなさんに作ろうと思ってもらえるだろうか?というトコロから議論を始めるべきではないかと思うのです。
かつて、京都府立植物園の名誉園長である松谷茂さんは、
「植物園は、葉っぱの1枚までも税金で賄われている」
という趣旨の発言をされていますが、それに併せていえば、図書館の全ての本の1ページも、すべて税金で賄われている訳です。
そうであれば、もし、「利用者」(納税者)が既にその施設を不要と思っているならば、その存続を前提に役割を考えるのは、言うまもなく本末転倒です。
なので、「0ベース思考」(← よく知らない)で考えるべきだと思いますし、加藤和英さんの「「県立図書館不要論」必要論」は、そのとおりだと思います。
まずは、市町村の図書館等の職員さんに、「府県立図書館があってよかったわ」「やっぱり、なくちゃ困るな」と思ってもらえる役割があるのか、そして、来館することのできない遠隔地の利用者にも、「私たちの図書館」と思ってもらえる機能があるのか。
今はまだ、「コレだ!」という理論を構築するには程遠い段階です。
ただ、なんとなく、現在のIT環境を駆使すれば、以前ならその前提であった時空間の制約を捨象し、「直接、来館できない利用者に対する直接サービス」を考えることも、十分可能のような気がするのですが……
(スグに思いつくモノでは、「電子書籍サービス」とか)
今後、この場を通じて、いろいろ考えていきたいと思っています。
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