「図書館は、受け入れた本を、長年(できれば、永遠に)保存しておく場所だ」というのは、ある意味、当然のコトに思われていると思います。
確かに、少し前までならそうだったかもしれません。
しかし、本自体を残さなくても、電子的に本の内容(コンテンツ)にアクセスできるようになった今、そしてこれからは、少し様子が変わってくると思います。
ご存じのように、本自体は、とても場所をとります。
しかし、同じ内容の文字情報を電子的に残した場合、ほぼ、物理的な場所は必要ありません(再生する装置は必要ですが)。
もちろん、本における装丁が重要だったり、書誌学的にその本そのものが必要だというコトはあります。
しかし、それは、図書館全体の利用から見れば、ごくわずかではないでしょうか。
実際、アメリカには、本が全くない図書館がありまし(それは、"図書館"か?(笑))、もし、どうしても本自体が必要な場合は、図書館間の相互貸借によって、他館から取り寄せるコトも可能です。
こういった状況の中で、書庫スペースを新たに探したり、増築したりしてまで、増えていく本を保存する意味はどこにあるのでしょうか。
そこで、一般的な町の図書館は、定期的に蔵書を「除籍」(廃棄)したり、「リサイクル本」として市民に提供する等して、限られた書庫スペースの新陳代謝を行います。
一方、国立国会図書館は、日本の出版文化を後世に残すため、(少なくとも名目上は)日本で出版された本を全て保存しています。
もちろん、そのために巨額な税金が投じられていますが、このような目的のためなら、それは、多くのヒトの賛同を得られると思います。
では、その中間にいる都道府県立の場合は、どうでしょう?
言うまでもなく、まだまだ多くの本や新刊がスグに電子化されない現在の状況では、的確に本を提供するために、ある程度現物を保存しておく必要があるでしょう。
また、電子化もできないような、そして、二度と入手できないような古かったり記帳だったりする本は、引き続き、現物を保存していく必要があります。
しかし、それ以外の本は?
「中のヒト」にとって、普段、問うコトもない自明なコトって、「外のヒト」から見ると、かえって不疑義なコトだったりします。
税金で運営されている以上、普段、あまり図書館を使わないヒト達にも、少なくともある程度は納得してもらえる理由が必要です。
……というコトに、最近、気付かされました。
あとは、その答え(笑)。
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