2016年5月12日木曜日

「司書の書誌」第23回 司書の意識

かなり前に、自分のブログのどこかに(笑)、

「自分の本でないから大切にするヒトと、自分の本じゃないから大切にしないヒトがいる」

と書いたコトがあります。

しばしば、新聞等でも、図書館本の汚損破損切り取り、さらには盗難が取り上げられる時があります。

意図的、あるいは悪意をもってするのは論外ですが、人間ですから、不注意でそれらをしてしまうコトもあります。
その際の反応が、やはり、利用者によってかなり違うなと感じます。

そもそも、図書館から本を借りる時点で、その場で持参のカバーをかける方や、返却の際にも、丁寧に風呂敷(?)に包んで持ってこられる方もいらっしゃいます。

図書館の本は、言うまでもなく、「公共の財産」です。
それに対して、根本的にどう接するかというのは、教育というか人間性というか、もしかしたら、図書館側の呼びかけとか「利用者教育」(上から)といったモノではどうもならないのかもしれません。

一方、司書側の意識ですが、図書館の本を自分(職員)のモノと考えるか、利用者のモノ(を預かっている)と考えるかで、だいぶ姿勢が変わってくると思います。

それこそ、本が今よりずっと少なかった時代は、本自体が大変貴重で、さらに、「官」の権威も高かったでしょうから、利用者の側も「本を読ませてもらう」という意識で、なんなら、図書館側も「読ませてやる」といった意識もあったかもしれません。

しかし、言うまでもなく、図書館の本は、ページの1枚まで、すべて税金で賄われています。

もちろん、だからこそ、職員にはそれらの本をキチンと管理・維持・保存する責任がありますし、その仕事を託されている訳ですから、ある程度のルールを作って本を守る義務がありますが、ただ、根本的には本は利用者のモノだと思っていれば、過度な利用(貸出)制限や閲覧停止といった発想にはならないのかなと思います。

いずれにしても、ひとそれぞれ、グラディエーションのように微妙に違う感覚や意識、そして、「常識」を持つ中で、できるだけ多くのヒトが気持よく共有のモノを使うのは、なかなか難しいなと、いつも閲覧室に出るたびに感じます。

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