「ラーメン」を「ラーメン」ではなく、「麺」や「そば」と言っちゃう背景には、一体、何があるのでしょうか?
この問題(?)を考える時、自分は、スグにナンシー関さんの、「「好きな俳優は渡部篤郎」と言う人たちはなぜ自信満々なのか」(『何だかんだと』所収)というエッセィを思い出しました。
その中に、こんな一節があります。
渡部篤郎は、(略)何をしても何か意味ありげに深読みされたりする。タレントとか芸能人というところとは一線を画し、更に「俳優」という肩書にもちょっと不服げだったりして、アーティスト・表現者という自意識である。それか、いっそ「役者」と言ってしまうのも好きである。あのですね、「そば」問題は、この中の、「いっそ「役者」と言ってしまうのも好きである」のあたりと非常によくにた精神性を感じるのです。
なんか、「卑下」というのとはまたちょっと違うのですが、とにかく、「自分のやっているコトなんて、大したコトないっスよ」という感じを出すためか、あえてぶっきらぼうに表現してるんだけど、なぜか、かえって、強い自尊心が感じられるというか(笑)。
もちろん、本当の(?)「そば」は、それはそれでややこしい(というか、めんどくさい(笑))世界ですが、ここでいう「そば」は、その「そば」(日本そば)ではなく、おそらく、単に「麺類」の意味で使われていますよね。
つまり、最近のラーメン屋さんは、渡部さんバリに、ご自身を「職人」や「料理人」というよりは、「アーティスト」や「表現者」と思っておられるのかもしれません。
いや、全然問題ありません。
むしろ、いいじゃないですか。
ただ、上記のエッセイには、そのファンについて、
どうして「渡部篤郎が好き」と言う人はちょっと威張っている感じなのかは不思議である。とあります。
威張っているというのは語弊があるかもしれない。得意げ、というか自信満々なのである。
ちょっと恥ずかしいので、「ラーメン」を「そば」と言っちゃうお店を激賞し、知らないうちに「ドヤ顔」になっていないかは、鏡で確認したいと思います(笑)。
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